Founder Shinichi Ohkubo創業者 大久保真一

創業の志は未来を拓く力になる 創業の志は未来を拓く力になる

自分の全てを賭して
悔いなし

大久保 真一

Profileプロフィール

ダイオーズ創業者

大久保 真一

/ おおくぼ しんいち

1941 - 2024

1941年東京・浅草生まれ。中央大学卒業。在学中、全日本学生写真連盟委員長。広告会社勤務を経て67年より米国と欧州の流通企業で研修。69年に家業の米穀店に入店しダイオーズを設立。都内の米店を組織化し配達スーパー開始。70年クリーンケア事業開始。77年日本初のオフィスコーヒーサービス事業を開始する。89年には米国の同業会社を買収して海外進出。2007年に東証一部に上場。BtoBの継続サービスに特化してオフィスコーヒーサービスなど事業所向け各種サービスを日本、アメリカ、アジアで多角的に進め、2019年に6月に創業50周年を迎えた。趣味は写真撮影と世界旅行。

1 「商売は心」父の教えと母の願いに導かれて

1941年に浅草の小さな米穀店の長男として生まれた大久保は、小学生の頃から家業を手伝い、父の代わりに時折配達も行っていた。父から「商売は頭じゃない、心なんだよ」と常々教えをうけ、その姿勢に影響を受けた大久保は、お得意さんから「ありがとう」と言われることが嬉しく、心の通ったやりとりにやりがいを感じていた。
中学卒業後は大阪へ奉公に出て、いずれ家業を継ぐ予定だったが、高等女学校出身で勉強好きの母の勧めで高校進学を目指すことに。反対する父と母の話し合いの末、東京都立京橋商業高校(現晴海総合高校)に進学し、家業継承の道に変化が生まれた。

2 進学か就職か、自我とともに選んだ大久保の挑戦

高校に進学した大久保は、こんどこそ卒業後は大阪での奉公が予定されていたが、高校生活を通じて自我への目覚めとともに自信を深め進路を見直すようになる。簿記で好成績を収め、写真クラブを設立し、生徒会議長も務めた。
3年生の時には教頭の不正を告発したことで学校と対立し、推薦が得られない中で大手百貨店への就職を自力で勝ち取る。これが大きな自信となり「やればできる!」この想いがやがて大学進学を志すようになり、得意の簿記を活かして中央大学経済学部に合格。
父の期待を裏切る形で、大阪行きを選ばず進学の道を進むことになる。
大学では全日本学生写真連盟の委員長として活躍しながら、全国各地の流通繁盛店や商業情報に関心を持ち、やがて海外の流通に興味を持つようになる。

3 船底から見えた世界。流通修行と人生の選択

大学卒業後は海外で活躍したいと考えるようになった大久保だったが、英語が苦手ながらも商社を中心に就職活動を行うがなかなか採用には至らず。そんな中、マーケティングの可能性に惹かれ大手広告会社に入社。営業を経て念願のマーケティング部門に異動となる。在職中、当時通商産業省(現経済産業省)が主催する海外の流通業に関するセミナーに積極的に参加し、自ら講師に積極アプローチすることで海外研修のチャンスを獲得。苦手な英語を克服すべく、独学や語学番組、英会話スクールに励み、さらには外国人のホームステイ受け入れなどを通じて実践力を磨いた。

家族、とりわけ妻子を日本に残すことに反対する両親の意を受けながらも、アメリカ行きを強く望んだ大久保は「帰ったら日本一の米屋になる」と父に誓い、渡航資金の援助と妻子の世話を託し、貨物船の船底で10日間かけてついにアメリカの土を踏む。
アメリカではCGCや南カリフォルニア大学、セブン-イレブンなどで流通を学び、その後ヨーロッパにも渡航。研修中はホテルを使わずすべてホームステイを通じて欧米の生活文化にも触れ、流通の現場を体験的に理解した。
約2年にわたる研修の末、「アメリカで事業をしたい」という夢を抱くようになるが、最終的には家族のもとへ戻り、父の跡を継いで日本一の米屋を目指す決断を下す。

4 配達スーパーが米屋を変えた!商売に必要なのは心と戦略

大久保は、家業である米屋を日本一にするため、渡米前から綿密な準備を進めていた。帰国後、米屋おおくぼを創業し、ボランタリーチェーンの仕組みを活かした「配達スーパー構想」を打ち出し、都内の同業若手経営者らとともに配達スーパーを開始する。これは当時の米屋が抱える「営業テリトリーがあらかじめ決められている」「来客が少ない」といった問題を解決するため、米屋が持つ御用聞きと配達の機能を組み合わせた画期的なものだった。
当時は一升瓶の醤油や油など、重い物やかさばる物を買って帰るのは大変だったため、家まで届ける配達の仕組みは顧客からとても喜ばれた。

大久保は、共同での仕入でコストを抑え、スーパーと同じ価格で販売することで顧客に価値を提供し売り上げを伸ばしたが、反面、薄利によって利益は伸び悩んだ。
そんななか、スーパーとは競合しない新しい商品を取り入れる必要性を感じ、当時ダスキンの「化学ぞうきん」に注目。水の要らない雑巾というかつてない商品を扱う難しさに直面しながらも、「配達スーパーでいつも世話になっているから付き合ってあげるよ」と、次々に契約を結んでくれた。大久保はここでも改めて「商売は心だ」と、父の言葉をかみしめるのであった。

5 日本にレギュラーコーヒー文化を!大久保が見据えた新市場の可能性

米穀店の決められた営業テリトリーを超え商圏の拡大を図るためにどうすれば良いか?大久保が下した決断は「業務用市場」に進出することだった。
個人ではなく中小企業をターゲットにしたクリーンケア用品のレンタル販売は順調に契約を伸ばし、当時ダスキン加盟店約2,000社の中で売上全国1位を達成する。
その後、共に働く社員に新たな夢を語り、いずれ自分たちが本部フランチャイザーとして成長する新たなビジョンを打ち出す。
その事業として大久保が着目したのが「オフィスコーヒーサービス(OCS)」だった。
欧米の職場ではレギュラーコーヒーが日常的に飲まれている光景をかつての流通研修時に目にしたことをヒントに、いずれ日本でも同様の文化が広がると確信。業務用市場を対象にした“継続的ビジネス”という観点からもOCSの可能性に着目したのであった。
大久保は、ノウハウを学ぶためアメリカで成功する企業へ訪問アポの手紙を何枚も出し、日本に持ち帰るための準備を進めた。

6 レギュラーコーヒーでオフィスの風景を変えた情熱の軌跡

日本初のオフィスコーヒーサービス(OCS)事業の実現に向け、大久保はアメリカで見た本格的なコーヒーマシンを日本に導入しようとしたが、日本向けの仕様改良には多額の費用がかかることが判明。また、小規模オフィスでの導入を前提としたサービスには適さないと判断し、日本でオリジナルのコーヒーマシンを開発する道を選ぶ。
製造ロット2000台という高いハードルがあったが、信頼を築いてきた取引先や仲間たちの支援により、銀行融資と主宰するフランチャイズへの加盟金などの資金で事業をスタートさせる。

1977年、36歳で日本初のOCS事業を本格始動。翌年にはフランチャイズチェーンの本格展開を開始し、急速に契約を伸ばす。この流れの中で社名を「ダイオーズ」に改め、企業としての飛躍を図る。
そして1988年、創業20年の節目に、原点でもあるアメリカでOCS事業を展開する夢に挑む決断を下す。実はその頃には、すでにアメリカ進出への準備を水面下で着々と進めていたのであった。

7 一歩ずつ信頼を積み重ねたアメリカ市場への挑戦

アメリカ進出を長年にわたり見据えていた大久保は、実は進出する10年以上も前から現地市場の徹底した研究とアメリカでの人脈形成に時間を割いていた。そしてついに1988年にカリフォルニア州にダイオーズ U.S.A.を設立。
まずは実績のある南カリフォルニアの優良OCS企業をM&Aし、経営者の力を借りながら数社の吸収合併を進め、堅実に一歩ずつ足もとの基盤を築いた。「西海岸で基盤を固めるまでロッキー山脈を越えない」という徹底方針のもと、まずは南カリフォルニア、次に北カリフォルニア、そして西海岸全域へと一歩一歩足元を固めながら徐々に拡大。
そしてアメリカ進出から20年が経ってようやくロッキー山脈を超え、全米各州への展開を本格化したのであった。

8 現場が原点、時代を先読みする“商売人”の眼と足

クリーンケア事業が順調に売り上げを伸ばす頃、父から「約束したのは日本一の米屋じゃなかったのか」と言われる。大久保は父のこの一言に立ち止まり、原点である「お米」の販売強化に取り組む。その突破口となったのが、小僧寿しのフランチャイズ展開であり、米の取り扱い量を大幅に伸ばすことに成功した。大久保は「これで父との約束は何とか果たすことができた」と当時を振り返った。
一方、日本国内では2000年には独自ブランドでのクリーンケアサービス事業の立ち上げ、ウォーターサーバー事業の開始、2003年には定期清掃サービス「カバーオール事業」にも着手し、“継続反復型”のBtoBサービスを次々に展開。信頼と実績を武器に、お客様が求めるニーズの変化の中で成長を続け、2007年にはついに念願の東証一部に上場する。
大久保の挑戦はさらにアジア市場への進出へと続く。特にM&Aが困難なアジア市場では、現地企業とのパートナーシップに活路を見出し、現地ネットワークを活かして効率的に展開し急成長を遂げた。

2019年末から世界を圧巻した「新型コロナウィルス」のパンデミックではオフィス市場にも大きな影響を及ぼしたが、そんな厳しいときでも大久保は常に現場を注視する。「いつか必ずお客様は戻る!」じっとその時を待つかのように最高級のコーヒーマシンやバリスタ監修のコーヒーの開発など、現場の声をもとに着々と準備を進める。そしてパンデミックがやや落ち着いた頃には、かつてのように再び自らダイオーズのユニフォームを着て「研修の身」として顧客のもとを日々訪れる。
「BtoBに特化した顧客ネットワーク活用」「継続反復販売ができるビジネスの仕組み」「年間契約による新市場の創造」という3つの柱を守りながら、「商売は心」という信念と共に、大久保は生涯「現場第一」の姿勢を貫いた。

自分の全てを賭して
悔いなし

社会人として広告会社に入った
入社式の日に
1枚の紙を渡されて
「自分の人生観を書きなさい」
って言われたのです
自分の人生観なんか持っていなかったので
どう書いたらいいものか... 悩んだ末に、
苦し紛れに書いたのが
この言葉でした

My outlook on life私の人生観

私の人生観
1

仕事も人生も常に前向きに生きがいとして楽しむ

どんな苦しい状況でも前向きに捉え、自分にとってプラスになることを考えるのが私の人生観。私にとって仕事は苦痛ではなく、創意工夫しながら取り組む趣味のようなもの。生活のためではなく、生きがいとして仕事を楽しむ姿勢を大事にしている。

2

健康管理は仕事や人生を意欲的に楽しみたいから

健康でなければ意欲的にならない。意欲的にならなければ仕事は面白くない。だから自分を律して健康に気を遣う。「早寝・早起き」「食事管理」そして「毎日1万歩を歩く」-この三つを毎日365日実行することが私のモットーある。

3

仕事の8割は段取りで決まる

仕事の良し悪しは段取り次第。どれだけ本番前に準備したかによって本番の中身が違ってくる。仕事の8割は段取りで決まるが、そのために大事なことはどのように自分の時間を配分していくかである。

2019
ダイオーズ50周年記念撮影

2019 ダイオーズ50周年記念撮影2019 ダイオーズ50周年記念撮影

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